2021年4月18日
主日礼拝
《礼拝》
礼拝讃美歌⇒109番(旧212番)
『いのちの主イエスに』
聖書⇒ガラテヤの信徒への手紙2:19~20
『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』
礼拝讃美歌⇒355番(旧304番)
『主はいのちを』
聖書⇒コロサイの信徒への手紙1:13~17節
『御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』
聖書⇒ヨハネによる福音書1:10~12節
『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』
聖書⇒ヨハネによる福音書1:8~9節
『彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』
礼拝讃美歌⇒62番(旧16番)
『イエスよいかばかり』
《パン裂き》
聖書⇒コリントの信徒への手紙一11:23~28節
『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。』
礼拝讃美歌⇒142番(旧58番)
『渡されたもう』
《建徳》
フィリピの信徒への手紙2:6-11節
『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るま従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』
聖書⇒使徒言行録16:25-34節
『真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。』
礼拝讃美歌⇒438番(聖歌392番)
『神はひとり子を』
《建徳要旨》
①フィリピ2章6~11節:キリストは、自分を無にして僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。神であるのに人となられたへりくだり。更に、十字架の死に至るまで神に従順でした。だが、ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御こころのままに」と祈られました。この「しかし…」こそ私の学ぶべき課題です。どうすれば、キリストのように謙遜と自分を無にすることができるのでしょうか。キリストと一つになることです。マタイ11:28~30で、主イエスは「私の軛」と言われた。大工のイエスが作った軛を負い、主と一つに合わされて学ぶ。ガラテヤ2:19,20は、自我がキリストと共に十字架で死に、キリストが私の内に生きていることを告げています。それは努力によってではなく、信仰によって。(K・H)
②使徒16:25~34:囚人たちを管理する恐ろしい看守は、聖なる畏れを感じて、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、聞きました。「救われるためにはどうすべきでしょうか。」看守は、普通の人が抱く不安、悩みなどから救われる方法を問うたのでしょう。しかしパウロの答えは、「不安、悩みの根本原因である罪(一切の創造主である神様に背くこと)を赦され、神様と和解させて頂くために、イエス様を救い主と信じなさい」ということでした。看守と家族が神様を信じる者となり、喜びに満ち溢れた背景には、<聖霊のお働き、命がけで働く伝道者の姿と彼らによる主の御言葉の解き明かし、看守がぜひ救われたいと願って救いの道を質問したこと>がありました。救いの書物である聖書を与えられている私たちは、主を喜ぶ日頃の生き様を通して、周りに救い主イエス様を証しする者とさせて頂けますように。 (S.K.)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-04-18 K・H兄、S・K兄(24:00))