2021年4月4日
イースター礼拝

《礼拝》
礼拝讃美歌⇒167番(旧223番)
『救いの主はハレルヤ』
聖書⇒ルカ24:6~7
『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」』
礼拝讃美歌⇒164番(旧222番)
『墓の中はいと低く』
聖書⇒マタイ28:5~7節
『天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」』
礼拝讃美歌⇒165番(旧52番)
『主は墓より出でましけり』

《パン裂き》
聖書⇒マルコ14:22~25節
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」』

礼拝讃美歌⇒146番(旧61番)
『主イエスは墓より』

《建徳》
ヨハネ20:19-20節
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』

ヨハネ20:24-25節
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

礼拝讃美歌⇒128番(旧204番)
『栄の主イエスの十字架』

《建徳要旨》

ヨハネ20章19,26節:弟子たちは恐怖心から家に鍵をかけ閉じ籠っていたが、復活の主は入って来られ、「平安あれ」と言われた。逃げたことや否認を責めたりはしなかった。マルコ16章7節:さあ、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる」。これは天使が墓に来た女性らに語った言葉。ペトロだけ名指したのは彼に対する主の思いやり。それがここにも示されている。そして、最初に出会った地ガリラヤに行き、失意と挫折から立ち上がるよう主は願われた。復活の主に出会うのは、誰にもある魂のガリラヤ(主イエスを信じた最初の時)。復活の主は霊の体に変えられていた。だから復活の主を見ていながら、主だと分からなかった。それをマルコは、イエスが別の姿で御自身を現わされた(16:12)と記した。 (K・H)
ヨハネ20章24,25節:イエス様の弟子トマスは、復活のイエスに出会っても、その傷跡を触ってみなければ信じないと言いました。一方、マグダラのマリアはイエス様に後ろから「マリア」と声をかけられただけで、すぐに、「あぁイエス様だ」と気づいて、振り向きざま喜びすがりついていった。復活のイエス様にお会いした時の、この二人の違いは一体何なんだろう。トマスはイエスの直弟子です。それに対してマグダラのマリアは罪の女でした。イエス様に救われ、その多くの罪を赦され深く改心し、その後イエス様一行と旅を続けてイエス様をずっと支え続け、十字架の処刑も最後まで見届けたのです。イエス様はこのマリアの愛に対して、復活の最初に出会うという、この世で最も大きな喜びと栄光をもってマリアに報いたのです。 この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカ7章47節) (T・M)

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-04-04 K・H兄、T・M兄)