<建徳> 哀歌3章22~25節:主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。この聖句は哀歌の中心です。国が敗れ、神殿までも敵に破壊されます。「ああ主よ、なにゆえ」と書き始め、わたしたちは塵、芥のように見捨てられました(3章45節)と訴えます。そのような状況の中でも、主の慈しみと憐れみは朝ごとに新しいと歌いました。いつ終わるかも知れない夜が明け、太陽が昇る朝ごとに、哀歌の作者は「罪深い我らのなお滅びざるは、主の慈しみにより、その憐れみの尽きざるによる」と実感した。私は目覚めた時、そのような新鮮な思いで朝を迎えているだろうか、と問われます。♪救いに与り 日々保たれ かくあることさえ奇しきかな♫(礼讃476番)は、何事もなく朝を迎え、日々保たれていることは決して当たり前ではなく、奇しきことなのです。生かされていることの感謝を、哀歌は伝えていますが、コロナ禍にあっては尚更です。
朝ごとの新らしさとは、内面からの新しさです。それは信仰によって与えられます。それを信じる者は受け取ります。キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(2コリント5章17節)。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます(2コリント4章16節)、だから、私たちは落胆しません。 夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る(詩篇30篇5節・口語訳)。どんなに夜が暗くても、当たり前のように明るい朝が来ます。しかし、そこに神の尽きない慈しみと憐れみが、無言のうちに示されていることに気づきたいものです。コロナ禍の中にあっても、飢えることなく、温かな寝床があり、明日の生活に絶望することなく生きられるのは当たり前ではありません。哀歌は悲惨な状況下にあっても、その中に埋没せず別の視点で現実を捉え直しています。それが文頭語をアルファベット順に揃える技巧に示されています。そして、それでもなお私は主を待ち望む、主の真実は限りなく深い、と記しています。 (K・H)
礼拝讃美歌 9番(取柄あらぬ我に御子を賜い)
(聖書の御言葉)
◎友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛 はない。(ヨハネ15章13節)
◎しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの ために死んでくださったことにより…(ローマ5章8節)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-02-14 K・H兄)