2021年2月7日
《礼拝》
礼拝讃美歌→ 340番(旧 86番)
聖書朗読 →ヨハネ黙示録 5:12
礼拝讃美歌→ 27番(旧 154番)
聖書朗読 →出エジプト 14:21~23、14:27~29、
→マタイ 8:23~27
礼拝讃美歌→ 308番(旧 79番)
《パン裂き》
聖書→ 第一コリント 11:23~26
礼拝讃美歌→ 142番(旧 58番)
《建徳》
聖書→イザヤ 45:7
哀歌 3:1~21、3:33、3:38
礼拝讃美歌→ 508番(旧 243番)
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<建徳>
光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするもの。(イザヤ45章7節)
聖書の民イスラエル人にとって2つの大きな出来事。1,出エジプト。過越の祭として記念した。それは光である救い。2,国の滅亡とバビロン捕囚。災いと闇。まさかエルサレムが滅ぼされるとは、しかも神殿が破壊され、聖なるものが奪い取られようとは。絶対だと信じ、拠り所としていたものが失われた。それがどれほどの衝撃であったか。しかもバビロンを用いて神が罪の刑罰としてそうした。聖書の神は御自分の民をも滅ぼされる。決して依怙贔屓(えこひいき)しない。それは驚き。災いも神から来るから、そこに意味と希望が見出せる。コロナ禍の背後に神の手が働いている。単なる悪魔の仕業ではない。私たちは哀歌から、そのことを読み取りたい。
哀歌3章20節:わたしの魂は沈み込んでいても 再び心を励まし、なおも待ち望む。 「あなた」(神)の魂となっていたが、写字生が「わたし」の魂と書き直した箇所。激しく責める神御自身が、実は苦しんで私たちの上に沈み込むと知った作者。ここが、絶望から希望への転換点。だから、次のように言えた。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる(22,23節)。それを示す事例。非行を繰り返す息子に父親が激しい体罰を加えた。息子は打たれながら父親を見上げた時、その目には涙が溢れていた。それを見た時、息子は父親の苦しみと愛に触れ、改心した。2度と盗みをしなくなった。
コロナによって多くの人が苦しみ亡くなっている。わたしの生きる力は絶えた(18節)、と頭を抱えている人も多い。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心ではない(33節)。主の十字架は、苦しむ人のすぐそばに今も立っている。そして、人類の果てしない罪をご自分の身に負って祈っておられる。それを知る時、悔い改めの心が起こされ、そこに希望が生まれる。そのため神は闇を創造し、災いをも創造される。コロナ禍は闇と災いの時だが、それだけで終わらない。新しい世界に導こうとされている神がいる。 (K・H)
(聖書の言葉)
夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る。 (詩篇30篇5節・口語訳)
キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者な のです。 (2コリント5章17節)
わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。 (2コリント4章16節)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-02-07 K・H兄)