1、雅歌7章11節:雅歌から、私のもの(自我)が無くなることが読み取れた。どうしても私が私がと出てしまう。主イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた(マタイ16:24)。ここを最初読んだ時、大変難しいことで出来る訳がないと思った。しかし出来ないことを主は求めたりされない。むしろ反対で、私たちに真の自由を与えるために言われた。自我からの解放にこそ真の自由がある。主は「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われた(マタイ11:29)。主イエスの軛(くびき)を負うと、主と一つに固定される。主の軛が負い易いのは、共に主が背負われるから。その時、自我から解放される。キリストの愛に覆い包まれるとき、本当の休息が与えられる。 (K・H)

2、マタイ22章18節:皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。主は世の政治的権力と武力にどのように対応されたか。ローマの後ろ盾でユダヤの王となった独裁権力者ヘロデ大王は、幼子イエスを殺そうとし、ベツレヘムの2歳以下の男子を虐殺。御子イエスは神に守られた。大王の死後ガリラヤの国主になったヘロデ・アンテパスを主は、あの狐に…伝えなさい(狐~ラビのヘロデ観)と言われ、領外追放を謀るヘロデに御自身の使命を示された。ローマ皇帝への納税の是非を問われ、主が皇帝に言及されたのはここ(冒頭聖句)1回だけ。皇帝も神の支配、恵みの下にある故、特別な関心をもたれない。神にかたどって創造された人は、神のものとして生きることが求められている。政教分離問題の意味だけでなく、剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイ26:52)も、暴力や国家の武力保持の問題の是非だけでなく、主が持つ天使の大軍勢を捨て、神の御意志を生かすため御命を捨てる愛が示されている。 (E・S)

礼拝讃美歌 350番(今に至るこそ 主の恵みなれ)

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-11-29 K・H兄、E・S姉(21:12))