1、ヨブ42章1~6節:あなた(神)のことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。人から間接的に聞いて得た神についての知識と、神の語りかけを直接聞き、神を仰ぎ見て知ることとの違いを、ヨブは体験する。百聞は一見に如かず、に似ている。神は、ヨブの苦しみの原因を論理的には語ってはいない。それなのにヨブは、地に平伏して悔い改めている。私は理解や知識を超えた神の御業について、あげつらっていた何も分かっていなかった、とヨブは告白した。それは神を見たから。その神は19章25~27節で、ヨブが切に求めた贖い主イエス・キリスト、十字架のキリスト。ヨブの苦しみを、その身に背負ってくださる御方。ヨブは十字架の主イエスを仰ぎ見て、自らの非を悔い改めた。旧約聖書をイエス・キリストに在って読むのは、「聖書は私のことを証ししている」(ヨハネ5章39節)とイエス御自身が言われたから。 (K・H)
 
2、民数記21章4~9節:モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。燃える蛇が送られ、逆らった民を噛み、多くの死者が出た。モーセは青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げた。その蛇を仰ぎ見る者は命を得た。この出来事を踏まえて、主イエスは十字架に上げられる御自身と青銅の蛇を結び合わされた。今、私たちは見える蛇ではなく、目に見えないウイルスに苦しめられている。そのような苦しみの中で主を仰ぎ見る信仰を語ってから、神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3章16節)が記された。70年前、宣教師からこの聖句を通して神の愛を知らされ、信じた。そして今も、十字架の主を仰ぎ見る信仰に生かされ、聖霊の導きによって霊の目で、主の御姿を見ることができるのは大いなる感謝。 (E・S)
 
礼拝讃美歌 279番(深き主の愛は 測り知られぬ)
 
(聖書の言葉) 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。 あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、 主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。 主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。 (ヤコブ5章11節)
 
 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-10-11 K・H兄、E・S姉(20:00))