1、ヨブ19章25~27節:わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ…。ヨブは、神の沈黙と友人の無理解に苦しむ。その中で(9:33)神と自分との間の仲保者を、(16:19)弁護してくれる証人を切に求め、遂に、贖い主へと向かう。私たちの信仰も少しづつ成長し、目が開かれてゆく。すべては、イエス・キリストに結ぶ。死を間近に意識し、暗闇だけの陰府の塵の上にも立って下さる贖い主を見ようとした。ほかならぬこの目で見る、と。そして、木は切られても、また新芽を吹き 若枝の絶えることはない(14:7)と、復活への希望を見ている。旧約聖書には復活や天国の希望は殆ど出て来ないが、ヨブは十字架と復活のキリストを見ている。ヘンデルの『メサイア』に上記の聖句が取り上げられているが、それは復活を歌う第3部に。ヨブは遂に、そこに至った。ヨブ記を体験的に読んだのが内村鑑三。(K・H)
2、詩22編1~3節:わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。この詩の冒頭の聖句。イエス様は十字架上で、この言葉を叫ばれた。マタイは、エリエリ,レマ,サバクタニ。マルコは、エロイ,エロイとアラム語で記している。父よではなく、わが神よと呼んだのは、御子の立場ではなく、すべての人間の身代わりとして罰を受ける罪人の立場に立たれたから。ただ、この聖句だけだと誤解され易い。なのにイエス様は、どうしてこの聖句だけを口にされたのか。当時の慣習として、詩の冒頭だけを読めば、全体を表現したからこの詩は22節の私に答えてくださったから転換している。死を超えて復活を歌っている。15,16節はイエスの「私は渇く」に結び付き、この渇きは救霊への熱情を表す.
見捨てられた叫びで始まっても、復活の勝利と宣教の決意で結ばれている。更に続く23編の4,5節で、死の陰の谷を通るも守られ、敵の前で勝利の宴が設けられ、どんな時にも守られ、平安が与えられる。 (E・S)
礼拝讃美歌 216番(キリストには 代えられません)
(聖書の言葉) それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつま でも残る。その中で最も大いなる者は、愛である。 (Ⅰコリント13章13節)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2020-08-30 K・H兄、E・S姉(20:36))