1、ヨブ4章1~8節:考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ正しい人が絶たれたことがあるかどうか。自分の生まれた日を呪ったヨブ(3章)。それを命の創造主である神の否定と受け取ったエリファズは、4~5章の発言をした。その中心が上記聖句。ヨブが何か恐るべき罪を犯したから、このような結果になっていると因果応報を説いたもの。こんな酷い目に遭うのは、罪を犯したからだと.原因の種を蒔いたから、その結果を刈り取っている。エリファズはヨブに苦難の意味を説明している。そして、わたしなら神に訴え、神に問題を任せる(5:8)と言った。私も同じ言動を取るに違いない。それほど因果応報の考え方は根深い。それと、恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった(3:25)と言ったヨブ.彼は神を畏れ、敬虔な生活をしていたが、いつかどこかでこのようになって全てを失うかも知れないと恐れ危惧していた。幸福不安症ということ。何もかも調子が良いと、何か悪いことが起きるのではと不安になる.そうした根強い思いが私たちにもある。 (K・H)
2、ルカ10章25~28節:先生、何をしたら、永遠に命を受け継ぐことができるでしょうか。永遠の命を得るにはどうしたらいいか。これが一番大切。①すべてを尽くして神を愛すること。②隣人を自分のように愛すること。隣人愛のことは続く例え話で詳しく説かれているが、①については何と次の38~42節に示されている。主の足下に座し、聞き入っていたマリアの仕草。専心し、ただ1つに集中する姿勢。この世の事も神の事もと、二股をかけない。「マルタよ、必要なことはただ1つだけである。マリアは良い方を選んだ」と諭された。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛するとはマリアのようにすること。 (T・M)
礼拝讃美歌 450番(いかに汚れたる者の心をも)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2020-08-09 K・H兄、T・M兄(25:15))