マタイ6章25~34節:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる

日々の暮らしに事欠き、苦しんでいた民衆は、イエスの語られる言葉に釘付けになったに違いない。空の鳥も野の花も、生活のために働いていないとの見方は、創造主でないと言えない。私たちも働かなくて良いというのではない。衣食住のことは気にせず、また明日のことまで心配せず、今日をどう生きるかに集中するよう言われた。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい、そうすれば必要な物はみな与えられる、と。

物で溢れた物質文明の真只中にいると、不安になることがある。便利な物が次々出て来ると、ついそちらに思いが向いてしまい、神を第一に出来なくなってしまう。礼拝の場では神を覚えているが、自宅に帰ると神を忘れてしまう。神よりこの世を優先してしまい易いが、そうならないためにすべき方法が2つある。

①主の足もとに座って、話に聞き入ったマリアに倣う(ルカ10章39節)。誘惑に負けないで、御言葉に耳を傾ける前向きな姿勢を持つ。そうしないと世の煩いに翻弄されてしまう。マルタでさえそうだから私など尚更.

②マタイ24章40~42節。再臨の時、この世の事に夢中になっている人は取り残される。これは、そうならないようにとの警告。聖書は神の道しるべであるから、素直に聞いて神の正しい道に戻ること。以上の2つを守れば、神の国に入れていただける。 (T・M)

礼拝讃美歌 219番(栄えにて君の御許に我もまた)
礼拝讃美歌 424番 (主の愛の汝が内に満ち)

(聖句)
①マルタにはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 (ルカ10章39節)
②そのとき、畑に2人の男がいれば、1人は連れて行かれ、もう1人は残される。2人の女が臼をひいていれば、1人は連れて行かれ、もう1人は残される。(マタイ24章40,41節)

(余白に) 聖書を朗読し、その聖句から作られた礼拝讃美歌を賛美すると、なお一層、聖句が浮かび上がります。礼拝讃美歌の歌詞が、主を言い表す礼拝の言葉になっているからです。
(例)ルカ15章4~7節と礼拝讃美歌84番、
ルカ15章11~24節と礼拝讃美歌 6番、
エフェソ2章1~5節と礼拝讃美歌476番

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-07-19 T・M兄)