1、ヨブ2章11~13節:親しい3友の見舞い。変わり果てたヨブを見て,言葉を失った。どうしてこのようになったのか、分からない。原因の分からない苦しみに耐えるのは耐え難い。しかし、神はそのなさることをいちいち説明されない(33章13節)。そこで3友は、神に代わって苦難の解釈をする(13:7,8)。私たちも苦難に遭っている人の手助けをしようと思って説明し易い。ところが当のヨブは納得しないばかりか、反論する。ヨブ記にはヨブと3友との論争が4~27章まで続く。説明や解釈ではなく、共感がほしい。病床の父からの問いかけも同じ。ヨハネ9章で、生れつき盲目なのは誰の罪かとの質問に、主イエスは罪の結果ではなく神の業が現れるためだと言った。神は、意味のない苦難に遭わせられない。最後は万事を益に変えて下さる。解釈や説明しない優しさを、ヨブ記から教えられた。 (K・H)

2、契約について:聖書は、神と人間の基本的な関係としての契約の書。創世記91216:ノアとの契約は一方的。続くアブラハムとの契約も同じ(創世記122,3)。そのどちらも一方的な恵みの契約。それがモーセのシナイ契約になると、条件付きになっている。出エジプト195,6。何故そうなったのか。神と人間とが対等の近さになったから。その代表が十戒。しかし、エレミヤ3131-33には、来たるべき日に結ばれる新しい契約が預言されている。それがイエス・キリストによる契約。条件付きだった契約が、最初の一方的な恵みの無条件に戻っている。それは契約を守れない人間の弱さを思い遣ってのこと。受けるべき刑罰をキリストが身代わってくださり、私たちには祝福だけが与えられる。アブラハムへの約束のように。黙示録21章3,4節に、新しい天と地においては涙が拭われ、もはや死も悲しみもない世界が約束されている。礼拝でパンを裂く度に、そのことを思い巡らしたい。(E・S)

礼拝讃美歌 298番(主と主の言葉に頼るは楽し)

(余白に)神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8章28節)

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-07-12 K・H兄、E・S姉(22:03))