ヨハネ11章32~35節:イエスは、彼女が泣き、一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え…。人間の力では、どうすることもできないのが死です。泣くしかできない。死は魔王であり暴君のよう。弟ラザロの死を悲しみ、泣く人々の姿を見て、敵である死に憤りを覚えつつ、イエスは涙を流された。泣く者と共に泣かれる主様。しかし,「ラザロよ、出て来なさい」と命じて蘇らせました。驚くべき光景です。

黙示録14章13節:主に結ばれて死ぬ人は幸い、労苦を解かれて安らぎを得る。死が避けられないのなら、安らかに眠るように逝きたい、と願う。主は信じる者を、そのように召されます。コロナに感染し、苦しみながら死ぬのではないかと、不安と恐れに捕らわれる時、死を打ち破られた愛の主に結ばれていることを覚えたい。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します(Ⅰヨハネ4章18節)。死よりも強い愛である十字架の愛、死んでも生きる復活の命であるイエス・キリストが生きて働かれているからです。中世ヨーロッパでペストが蔓延し、人口の3割が命を奪われました。修道士たちは、いつ死が訪れても、それが自分たちの負うべき十字架であり、そこで生涯を終えることもまた神の思し召しと受け止めました。そしてメメント・モリ(死を覚え忘れるな)を口にしました。死を覚えるから、より良い生き方ができ、本当に重要な事を見極められるのです。一期一会も同じ心です。そこに主が在す。

礼拝讃美歌 57番(類もあらじな愛の主)

(聞くから聴くへ)
良い習慣はなかなか身に付かないのに、良くない習慣はすぐ身に付くものです。そして、止められなくなり易い。聖書を読み祈る習慣は、私たちを守り導いてくれます。何となく聞くことから、注意して聴く習慣が身に付きますと、主の御声とその導きに守られます。

ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-05-03 K・H兄)