ヨハネ9章1~3節:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」生まれつきの盲人について、主イエスはこう言われた。原因は両親や本人の前世の罪にある、と言われていた。それに対して主イエスは「そうではない」と言われた。過去に原因を探すのではなく、180度方向転換し、神に目を向け、因果応報という律法を超える、福音を示された。それが,神の業が現れるためである。ところで、人の情けと憐れみにすがる物乞いとして生きて来た彼は、目が開いた時、真っ先に見たいと願ったのは何だろうか。自分の目を開けてくれた主イエスの御顔に違いない。そして、人にではなく、主イエスの憐みにすがる生き方へと変えられた。そこに神の業がある。今、世界中にコロナウイルスが蔓延し、今まで普通にできていたことが出来ないでいる。そのような中で、私たちがまず最初に仰ぎ見るべき御方こそ、主イエス。その主イエスは、コロナ感染者の最前線で働かれる医療従事者の中に居られ、また、感染し苦しむ患者の傍らに十字架のキリストが居られる。更に,主を礼拝する私たちと共に居られ、不安と恐れから守られる。
礼拝讃美歌 256番(恐れは変わりて祈りとなり)
(同刻の建徳)
共に集えない今、場所は別でも同じ時刻に、同じ聖書箇所を読めるなら幸いです。先週の建徳に繋がる箇所として、今朝はローマ8章18~22節を読みます。ライブ配信を聴けない方もご一緒に。現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。……被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
(K・H兄)
ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2020-04-19 K・H兄)