①ヨハネ13章1~20節:主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
この場面を描いた2人の画家の絵について。足を洗うのは、奴隷や召使いの仕事。ところが、主は自ら膝を屈めて弟子たちの足を洗われた。そこには、裏切り者ユダの足もあった。そして、上記の聖句を口にされた。互いに足を洗い合いなさいと。目黒区にある洗足学園の校歌♪たがひに足を洗えと宣りし…♫。ところが互いに足を洗い合う習慣は、その後の弟子たちの言行録には見られない。それは実際に足を洗うという形式よりも、互いが低くされ謙遜になって仕え合う精神を重んじたから。ここで考えたいのは、足を洗う側と洗われる側の違いについて。大阪釜ヶ崎で奉仕しておられる本田哲郎神父は、互いに足を洗う義務がある、負債を負っていると訳しておられる。礼讃9番に、取柄のない者を愛して救って下さった主に、私たちは「愛の負い目」を負っている、とある。その負債を実感して、自ら低くなってこそ出来る。足を洗ってもらう側は、自分の弱さや汚れを包み隠さずにさらけ出すこと。それは難しい。足を洗われるのを拒否したペトロに主は「もしわたしが洗わないなら、あなたとは何の関係もない」と言われている。だから先ず、日々の汚れを互いに告白し合うことが大切。互いが1つになること。それは父神とイエスとが1つであったように(ヨハネ17章23節)私たちもそれに倣いたい。主の十字架の愛という払い切れない負債を負っているから。ローマ13章8節。(N/H兄)
建徳の録音です。
(建徳 2020-03-08 NH兄)