①マルコ5120節:ゲラサの狂人は、鬼と形容した方が日本人には分かり易い。また、この人に対するイエスの態度は、開口一番「悪霊よ、この人から出て行け」と命じるが、悪霊たちは何とか譲歩を引き出そうとする。するとイエスが、悪霊たちの名前を聞く。会話の順序が逆さま。しかも全体を通し、マルコは淡々と記す。男の内面にある葛藤などは、読者の想像に任されている。特に、なぜこの男が2000もの悪霊に取り憑かれたのか、は何も書かれていない。またイエスが豚への乗り換えを許可している理由も書かれていない。最後のところで、イエスがこの男に「家に帰って、自分の身に起こったことを告げ知らせよ」と命じられたが、そのことで多くの人がイエスのことを知るようになった、とある。これは、私たちが実践できる伝道方法の一つであろう、と思う。 (小山栄一兄)

②ヨシュア1章8,9節:この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ…。いつでも四六時中、神のことを思いなさい。思うように努めなさい。また、神は常に私たちと共に居てくださる。そして、神には何でもできる。それを忘れないでいたい。朝の通読会で、創世記26~28章を読んだが、神はいつも私たちと共に居てくださると、本当に信じているだろうか、と問われた。マルコ10章27節:イエスは言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。金持ちの青年に言われた言葉。私たちの集会も人数が減っている。なんとかしないといけないと思うが、我々自身はどうなのか。神が四六時中、共に居て下さると感じているか。また神には何でもできることを忘れていないか、が問われている。 (北原兄)

建徳の録音です。

(建徳 2020-02-16 小山、北原 22:36)