①ルカ13章1~9節:そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは……。逗子市で起きた事故は災難だが、それをどのように受け止めるのか。1,気の毒だが偶然が重なり運が悪かった、と諦める。2,原因や理由を探り、何故あの人たちが犠牲になったのか考える。信仰が薄いから、罪深かったからなのか。ヨハネ9章。盲目に生れた原因は、親か本人の罪か?3,主イエスは「決してそうではない。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われた(3,5節)。それに続けて6~9節のたとえを話された。ぶどう園に植えられたいちじくの木は3年経っても実を結ばない。主人は「切り倒せ」と命じたが、園丁は「もう1年待って」と執り成す。神がご覧になるのは、罪の軽重ではなく悔い改めの実。この木は私たちの事。(人見兄)
②民数記9章15~22節:荒野を進む時、雲の柱が目印。その導きに従った。聖霊と聖書がそれにあたる。それで十分なのに、モーセは荒れ野の地理に詳しい義兄ホバブに、同行を懇願している(民10章29~32節)。何故なのか。神の導きと、人の助けの両面が必要だから。真理は円ではなく楕円で中心点を2つ持つ、と内村鑑三は述べた。互いに相反する2点を持つ楕円。神の義と神の愛がそれ。義だけではない、愛だけでもない。神の怒りと赦しは、1枚のコインの表裏。そこに主の十字架がある。神は罪への激しい怒りを御子イエスに注ぐ程に人を愛し赦される。その主イエスは、私たちと同じ人間ゆえ身代わりとなられた。かつ、完全な神であったゆえ私たちを救えた。これらは頭脳では理解できないが、信仰によって受け止める。 (浜田兄)
建徳の録音です。
(建徳 2020-02-09 人見、浜田 28:25)