①ヨハネ6章22~40節:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。主イエスは男だけで5千人もの群衆が満腹するパンを与えた。群衆は、そのパンを求めた。それは御利益宗教に近い。パンは必要だが、まず何を優先するのかだ(マタイ6章33節)。そうした群衆にイエスは教えた。それが上記の聖句。永遠の命を得るための食べ物ではない。それに至る食べ物だ、とある。永遠の命に導いてくれる食べ物を求めよと言われている。それは、天からのパンであるイエス御自身。「神の業(複数形)を行なうためには、何をしたらよいか」と人々は問うた。それに対して「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(単数形)である」と答えられた。人間があれこれ行う業ではなく、神がイエスによって行われた業(贖い)を信じることだけ、それは1つ。その信仰も恵みであり、神の業。(人見兄)
②マタイ22章34~40節:隣人を自分のように愛しなさい。隣人愛の基準は、自分への愛にある。けれど利己愛ではなく、自分を正しく愛することにある。レビ19章18節:自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。具体的にはどうすることか。主イエスは沢山ある律法を2つに要約された。1,神への愛で、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くす愛。2,人への愛。縦と横の関係で、心・精神・思いを尽くして=命を捨てる程の愛で、神がまず私たちを愛されたこと、それが出発点。
自分自身を責めていた夜、「あなたは自分自身に、ありがとうと言っていますか」と語りかける声を耳にした。はっとした。私は自分自身を「正しく」愛していなかった、と気づいた。(浜田兄)
建徳の録音です。
(建徳 2020-01-26 人見、浜田 27:46)