①マルコ6章30~36節:弟子たちがイエスのそばに来て言った。「…人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」男だけで5千人もの大勢の群衆は、人里離れた所であっても、イエス様のお話を聞くため一斉に駆けつけた。そして、食事をすることも忘れて、話に聞き入った。イエス様はどんなお話をされたのだろうか。福音書を読み返して、主がどのようなお話をされたか思い巡らしているが、分かり易い話だったろう。群衆は肉体の空腹より、イエスの話に飢え渇いていた。主イエスではなく、弟子たちが食事の心配をしているのに気付いた。我々自身の姿を示される。本当に人を惹きつけるイエス様の話、民衆の心にすっと入ったお話に心を留めたいと思わされた。(北原兄)
②創世記3章24節・黙示録22章14節:命の木に対する権利が与えられ…。エデンの園で禁じられた善悪の木の実を取って食べた。その結果、命の木から遠ざけるため楽園から追放された。それは、罪を持ったまま永遠に生きることほど悲惨なことはないから。裏返せば追放は神の憐みであり、その時点で救いの計画が立てられていた。命の木に対する権利とは、その木への道が開かれているということ。黙示録7章13,14節。創世の初めから黙示録に至るまでの長い年月、神様の御旨は一貫して揺れ動かないことを知り、感動した。イエス様の愛と憐れみは感謝しても感謝し足りない。13歳からの私自身のこと。不条理を描いたカミュの本。阪神大震災や東日本大震災等、そこにも不条理がある。しかし、確かな平安と希望は主にこそ有る。(柴川姉)
建徳の録音です。
(建徳 2020-01-19 北原、柴川 13:55)