①ルカ1章46~56節(マリアの讃歌):わたしの魂は主をあがめ…。マリアをほめ讃えた歌ではなく、マリアが主をほめ讃えた歌。マニフィカートと呼ばれる。あがめるは、主を大きくすること。私は全生涯・全生活を懸けて、主を大きくしますと歌う。同じ場所が子どもの時には広く大きく思えたのに、大人になって見ると小さく見える。謙遜に自分の小ささが分かることが、主をあがめることに通じる。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった。主のはしためであるとの意識。私たちは小さな者には目を留めないが、神はそうではない。松田明三郎はクリスマス劇で星の役をもらった子と、その母の喜びを詩にした。マリアは、自分が選ばれる理由の何もないことを自覚していた。だから、驚き喜んだ。51~53節:ここに逆転現象が見られる。18年前のプロ野球で、劇的な代打逆転ホームランが思い出される。しかし、イエス様の十字架によって救われたことほどの大逆転はない。(人見兄)
②マタイ1章18~25節:見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。マリアと較べると,音楽や絵画に於いてもヨセフは影が薄い。彼はマリアの妊娠のことで悩み、苦しんだ。正しい人だったが、秘かに離縁しようと決心した。すると夢で聖霊による懐妊だと告げられる。処女降誕は理屈では理解できない。しかし、ヨセフは受け入れた。そこに彼の信仰がある。イザヤが700年前に預言した7章14節の言葉「おとめ(処女)が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられるの意)と呼ばれる」をマタイは引用した。その文脈は敵の同盟しが攻めて来ると聞き、王も民も森の木々が風に揺れ動くようにザワザワした。そこで神はインマヌエル預言を示した。神があなた共に居る、と。(浜田兄)
建徳の録音です。
(建徳 2019-12-08 人見兄、浜田兄@37:50)