①Ⅰコリント1章26~31節:世の無に等しい者、身分の 卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
神の召し・選びの基準は、この世の常識とは全く違い無に等しい者・地位や肩書のない人・見下げられている人を敢えて選ばれた。奴隷であり徴税人や遊女らの罪人のレッテルを貼られた人たち。イエスが選んだ弟子たちは無学な漁師であり、蔑まれていた徴税人。そこがファリサイ派とは大きく違う。それは、人間的な知恵や能力を誇っていた者たちに恥をかかせるため。しかし、本来私たちは、神の前では無に過ぎない者。選ばれるに値しない者。パウロ(小さい者の意)は家柄も良く、優秀で才能に溢れた人。しかし彼は自分を無に等しい者と考えた。何故か。イエスご自身がそうであったからだ。自分を無にして、卑しい僕(奴隷)の身分になられた(フィリピ2:6~8)。下へ上り、小さく無になること。宮沢賢治が、ソウイウ者ニ,ワタシハナリタイと書いたデクノボウもそれに通じる。(浜田兄)
②ルカ24章36~43節:復活し、弟子たちに現れた主イエス。
しかし、弟子たちは喜びの余りまだ信じられずにいた。当時のキリスト者は迫害下に置かれていたので、ローマ帝国を倒すリーダーとして期待した(使徒1章6節)。しかし、主の語られたことは違っていた。そのことを、主の復活・昇天・聖霊降臨に接して理解した。そして、救われた喜びから命を懸けて宣教した。このイエス様を知るきっかけは、人それぞれ違うが、神のなさることは誠に不思議。私たちは一生を通じて聖書から神の素晴らしさを読み取り、生活を通してイエス様を証しする者でありたい。 先日、大阪の解体業者から「今、ローマ教皇が来日しているが、同信会とどんな関係にあるのか」と尋ねられた。そこでも、主のことを証ししたいと思った。(北原兄)
建徳の録音です。
(建徳 2019-12-01 浜田兄、北原兄@27:14)