①マタイ22114節:王が客を見ようと入って来ると婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。婚宴のたとえ話。王=神、王子=イエス、家来=聖霊で、王は丁寧に心を込めて招待した。何度でも招待している。そこに神の熱情を見る。それに対して人間は、何と冷たい反応をしていることか。そこで通りにいる人は誰でも集められ、婚宴は客で一杯になった。当時の慣習として、入口で用意されていた礼服が与えられた。ところが、その礼服を着ていない者がいた。礼服よりも、もっと上等の服(自分の義、正しい行い)を着ていると自負していたから。つまり、では礼服とは何か?ローマ13章14節。主イエス・キリストを身にまといなさい。このように、自分は罪人ではないと誇っている人は、締め出される。2ペトロ3章9節。1人も滅びないように神は忍耐しておられる。しかし、盗人のように主の日は訪れ、婚宴の戸は静かに閉じられる。 (百瀬兄)

②ローマ71425節:わたしは自分の望む善は行わず望まない悪を行なっている。したい善をしなくて、してはいけない悪をしてしまう。分かっちゃいるのに止められないのです。テトス3:11自ら悪いと知りつつ罪を犯している。意志が弱いからではない。意志の強弱ではなく、内在する罪がそうさせるから出来ない。それが私たちの現実。皆、罪に売り渡され、罪の虜(とりこ)だから。それは、罪の法則にまでなっているので、必ずそうなる。では、どうすれば良いのか。仕方ないと諦めないで、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫んだパウロのように、真の救い主イエス・キリストに手を差し出すこと。そうすれば主イエスは直ぐに、あなたの手を握り締め、泥沼から引き出して下さる。何と感謝。 (浜田兄)

建徳の録音です。

(建徳 2019-11-24 百瀬兄、浜田兄@20:00)