①ローマ5510節:しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった…。東中野の寺の門に「有り難うの反対は当たり前」と書かれていた。私も同じことを話した。道徳的な教えは仏教も説いている。キリスト教独自の福音とは何か。それは有ることが難しいもの=十字架の愛。単なる愛ではない。主イエスが生と死で示された愛。背く者、不信心な者、罪人を救うために命を捨てた程の愛。その愛が分かるのは聖霊の働きによる。五十嵐健治兄が客人によく話した言葉。 (浜田兄)

②フィリピ39節:わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義…。下線部はキリスト信仰と訳せるが、信仰対象のお方だからキリストの真実と訳す。そうすると、私の信仰ではなく、キリストの信仰へと主語が変わる。そして、1.上からキリストの真実・救い・愛によって贖いが完成し、救われる。その結果、2.下からキリストへの信仰が生れる。私の信仰ではなく、主の愛による一方的な御業にによる。歎異抄の「本願誇り」に通じるのが「信仰誇り」。キリストの真実と事実との違い。本当にあったことが事実(客観性)。真実は、事実をどう読み取るかの解釈。キリストの十字架は、1人の男が処刑された出来事(事実)。しかし真実は、信じる私たちを救う贖いの業であったと理解。ローマ3章24節。猿の親子と猫の親子に例えれば、後者が信仰。子猿は自分でしがみ付いているが、子猫は母猫に掴まれている。(人見兄)

③ヨハネ316節:独り子を信じる者が…。信じることで救われたことを誇ることはいけない。しかし、信じなければ救われない。独り子を「信じる」、それが救いの条件。この聖句はそれを示している。(百瀬兄)

建徳の録音です。

(建徳 2019-10-20 浜田兄、人見兄@21:30)