①マタイ7章7節:求めなさい。そうすれば与えられる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。昨夜のラグビーWCでの勝利。そこから、主にお会いしたい!との思いが、どれだけ真剣かが問われた。求めなさいとあるが、世間の人との違いは、求めるものが神御自身であること。心を尽くし、魂を尽くして主を尋ね求めるなら、必ず出会える。バビロン捕囚に遭い、神に見捨てられたと思っている、そこから神を求めなさい。イザヤ65章1節:私たちが呼び求めるより先に、神の方が呼び求め、私はここにいる、ここにいる、と手を差し伸べていてくださる。いつでも主はすぐ傍におられる。だから大胆に求めよ。門は狭いから気づき難いが、力を尽くし狭い門から入りなさい。(斉藤正学兄)
②マタイ6章29,30節:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして…。野の草は雑草。今日抜き取られて明日は炉に捨てられる。明日の保証はない。私たちも同じではないか。そのような儚い草ゆえ、神はソロモンの栄華に優る装いをしてくださる。まして、あなたがたには…と、イエス様は言われた。なのに明日を思い煩うとは、何と信仰の薄い者か。名前のない雑草はないように、意味のない命は1つもない。雑用という用はない。害虫という虫もいない。一日一生、一期一会の心で生きれば、意味のない日は1日もない。そして、そこに主が居られ、背後で働かれている。(浜田兄)
③詩編50編15節:悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめる。ここに1人与えられた若い学生さんに、この聖句を贈りたい。悩みの日、苦難の日には神を呼びなさい。 (百瀬兄)
建徳の録音です。
(建徳 2019-09-29 斎藤兄、浜田兄@14:15、百瀬兄@26:17)