創世記4章1~16節:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。顔を上げられるはずではないか。…」
カインとアベルの違いは、信仰によるか否かによる(ヘブライ11章4節)。自分とその献げ物を拒んだ神に対し、カインは激しく怒って顔を伏せた。すると神は上記の聖句を語り、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と続けた。顔を上げて、神に「どうしてなのですか」と問い直すべきだった。なぜ私に?とヨブは神に問い直した。カインもそのようにすべきだった。神にどこまでも食い下がるべきであった。そうしないで、弟アベルを殺した。この世の多くの人も同じで、神に向き合おうとしない。ヤコブは神と格闘し、しがみついて放さなかった(創世記32章)。そして、勝利と祝福を得た。悶え苦しみながらも、なお神に求めてゆくなら、神にも人にも、最上の結果が与えられる。(百瀬兄)

礼拝賛美歌  427番 (「我に来よ」と主は今…)
ヘブライ11章13~16節:この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかのそれを見て喜びの声をあげ…彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。
先程の賛美歌は、目的を持たず旅路をさ迷っていた人々に、神のもとに帰れと呼びかけたもの。そして、天の故郷を目指す幸いな旅人の姿が示されています。私たちもそのような旅人として、人生を歩めるのは何という感謝でしょうか。先週受け取った「いずみ」という機関誌に掲載されていたカルバンの記事が心に留まりました。彼は巡礼者(神の故郷を求めて歩む旅人)の生涯を貫かれた。自らを隠したブランド兄が思い浮かび、自分の信仰が問われます。(柴川姉)

建徳の録音です。

(建徳 2019-08-18 百瀬兄、柴川姉@25:31)