友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15章13節)

十字架は、最も残酷な死刑の道具です。そこにかけられた人は、苦しみながら死んでゆくからです。ところが、その十字架がイエス・キリストによって愛のしるしに変えられたのです。自分の命を捨てる愛が、そこに示されているからです。他者の身代わりとなって、自分の命を捨てる愛、これ以上に大きな愛はありません。友のためであっても、自分の命を犠牲にできるでしょうか。とても難しいことです。

難病で苦しむ友だちがいます。病気は良くならず、悪くなるばかりです。お見舞いに行ったある日のこと。「何か、私にしてほしい事があったら何でも言って」と話しかけました。多少の犠牲を払ってでもする気持ちでした。病床の友は「じゃあ、私と代わって」と真剣な表情で答えました。その方は、返す言葉が何もなかったと言います。

第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所で実際にあった出来事です。収容所には脱走者を出さないため、逃亡を図った囚人が1人でも出たら、同じ棟の囚人から10人を餓死刑にするという掟がありました。それでも、1941年7月末、脱走者が出ました。同じ棟の全員が呼び出され、その中から無作為に10人が選ばれました。その1人が、「妻よ、子よ」と大声で叫び、身をよじって嘆きました。すると、少し離れた所にいた1人の男が手を挙げ、「私が彼に代わります。私はカトリックの司祭で妻も子もいませんから」と申し出たのです。それがコルベ神父です。収容所の所長は、その申し出を受入れました。これは実際にあった話です。コルベが身代わりとなった男は、その後、生き延び、生還しました。そして、自分を救ってくれたコルベ神父の話を、世界中に知らせました。なぜ、コルベ神父は、友でもない人の身代わりになって死んだのでしょうか。主イエスが自分の罪の身代わりとして、十字架上で死なれたからです。十字架は、命を捨てる程の愛を示しています。そのイエス・キリストに倣ったからです。

もっと身近な例として、駅のホームから転落した人を助けようとして命を落とした大学生のこと、記憶に残っていると思います。心を動かされますね。

イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3章16節)