新しい年として始まった2020年、いかがお過ごしでしょうか?東京・中野で2回目の新年です。去年は気づかなかったのですが、多くの家々の玄関両脇に松の枝が取り付けられているのに気付きました。何のためにそうしているのかを、ネットで調べました。常緑樹である松のように長寿を願い、年神様をお迎えするためだとありました。
年末には家の大掃除をし、元日には「明けましておめでとうございます」と挨拶します。大掃除をするのは、年神様というお客様をお迎えするためですし、門松を付けて歓迎の心を示しているわけです。お正月に仕事を休むのは、その神さまと一緒に食べたり飲んだりして過ごすためです。そこで食べるのがおせち料理です。1つ1つ縁起の良い意味を持った食材です。ですから、一種の宗教行事なのです。外国人が驚くのは、日本人の多くが、「自分は無宗教だ」と平気で言うことです。無宗教だと言いながら、上記の行動をしています。でも、神様を信じてそうしているよりも、皆がしているからしているのかも知れません。昔から和を尊び、皆が同じことをするのが善いこととされてきたからです。
こんな話があります。大型客船が座礁するかもしれないという危険な状態になりました。乗組員は乗客に、急いで救命胴衣を着用するよう説いて回りました。その時、英国人には紳士淑女はそうします、と説明しました。ドイツ人には救命胴衣の機能や構造を論理的に説明しました。国民性を踏まえて、説明を工夫しました。では日本人には、どう説明したと思いますか。「皆さん、そうしておられます(救命胴衣を着用しておられます)」と言いました。それだけで十分なのです。他の人はどうしているか、皆はどうしているかが一番の判断材料になるのが日本人だからです。考えてみますと、私たちもそうしていることが多いはずです。
聖書は人間を羊に例えています。羊が人間によく似ているからです。群れをなすこと、目先のことしか見ないので、羊はよく谷底に落ちます。私たちも社会という群れで生活しています。近視眼的で、目先のことばかり見ているので迷い易いのです。そして、羊には他の羊の真似をする性質があります。群れで進んでいる時、すぐ前の羊が石を避けようと飛び上がったとします。すると、後に続く羊も飛び上がります。後ろの方の羊は、何で飛び上がるのか分からないまま、前の羊の真似をするのです。同じことが、正月の松飾りに言えます。羊には正しく導き、助ける羊飼いが必要です。羊飼いなくしては生きていけないのが羊です。その意味で、私たちは羊と同じなのです。私はそのことが分かり、真の羊飼いであるイエス・キリストを信じました。その主イエス様をお伝えしたいのです。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(詩編23篇1節)