耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。(レビ記19章14節)

初めてこの聖句を読んだ時、こんなことが守るべき法として書かれていることに、正直驚きました。これは弱者への、いじめを禁じた言葉です。自分がしているとは分かるまいと思い、冒頭の聖句にある良くないことをしてしまうのです。誰でも悪をするときは、必ず周囲をきょろきょろと見るものです。そして、誰も見ていないのを確かめるのです。何と偉大なモーセも若い日、同じようにしています(出エジプト2章12節)。

近くの通りに面した空き地の角に、ペンキできれいに書かれた立て札があります。そこには、「おてんとさま、お月さまが見ているよ。ゴミを捨てないでね。」と、書いてありました。誰も分かるまいと思って、ゴミを捨てて行く人がいるので、土地の所有者が立てたようです。誰も見ていないようでも、神は見ています。

冒頭の聖句と同じレビ記19章には、弱者への配慮が次のように書かれています。
穀物を収獲するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である(9,10節)。
落ち穂拾いをして、やっとその日暮らしができる貧しい人への配慮が、法として命じられているのです。旧約の神は厳しく情け容赦ないと言われますが、何と思いやりに満ちた神でもあることでしょう。

私たちは人を意識するあまり、隠れた所で見ておられる神を忘れます。人の評価を気にするあまり、隠れたことを見ておられる神からの報いを受け損います。そのことを主イエスはマタイ福音書6章で、繰り返し教えています。(2022年2月19日)