喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12章15節)

これはできそうに思えますが、難しい方が先になっています。悲しんで泣いている人と一緒に泣くことよりも、成功して人からほめられ喜んでいる人と共に喜ぶことは難しいものです。妬みが入り込むからです。スイスの著名な精神分析医は、人間は、教養があればあるほど嫉妬深くなると言いました。教養は、この問題には、役に立たないことが分かります。ではどうしたら人の成功や幸福を、自分のことのように喜べるでしょうか。また、人の不幸を一緒に悲しめるでしょうか。本当の友にならない限り、このようにはできません。

中国の『三国志』に「管仲と鮑叔の交わり」が記されています。管仲の述懐です。
「私は昔、鮑叔と一緒に商売をした。そして利益を分ける時、自分の取り分を多くしたが、鮑叔は私を欲張りだとは考えなかった。私が貧しいことを知っていたからだ。私はある時、鮑叔と一緒に事業を始めたが、失敗して損害を出した。しかし鮑叔は私を愚かだとは思わなかった。物事にはうまく行く時と行かない時があると、知っていたからだ。私は三回仕官をしたが、三回とも主君から解雇されてしまった。しかし鮑叔は私が役立たずだとは見なさなかった。私の志が時勢に合わなかったことを知っていたからだ。私は三度戦場に出たが、いずれも逃げ帰った。しかし鮑叔は私を臆病だとは思わなかった。私には老母がいて、養わなければならないので、簡単に命を捨てることができないと知っていたからだ。私を生んだのは父母だが、私の心を最もよく知るのは鮑叔だ」。

真実な友とは鮑叔のような人です。このような友になれるでしょうか。そうなりたいけれど、できないものです。そのような中で、誰に対しても真実な友となられたのがイエス・キリストです。あなたや私の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しんでくださる真実な友です。讃美歌「いつくしみ深き友なるイエス」が思い浮かびます。その主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。…あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15章13,14節)と言われ、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。何という愛でしょうか。(2021年12月15日)