人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4章26、27節)

孫は1歳9か月になりました。2か月ほど前から、おしっこをトイレでする練習をしています。オムツを卒業する練習です。おしっこのサインを孫が出すと、娘は急いでトイレに連れて行きます。そこで用を足せたら、凄い!とほめます。もちろん、失敗して間に合わない時もあります。その様子を見ながら、自分はどうだったかな、と考えました。

私には同じ頃の記憶がないので、いつ自分一人でトイレに行って用を足せるようになったか定かではありません。でも、母の助けで、いつの間にか一人で出来るようになったと気づきました。今では当たり前にしていることが、出来ないときがあったのだと、孫を見て気づかされました。更に気づいたのは、「ありがとう」の反対が、「当たり前」だという事です。何度も失敗しながら、やっと出来るようになったのに、出来るようになってしまうと、してもらったことを忘れてしまうのです。

さて冒頭の聖句は、土に蒔いた種の成長について話された主イエスの言葉です。種の成長が、どのように行われているのか蒔いた人は知らない。その人が寝ている間に成長しているからです。人の成長も同じです。人が与り知らない、寝ている夜の間に成長しているのです。だから、いつの間にか自分だけで大きくなったと思うのです。しかし、孫から教わったのは、両親やいろいろな人の手助けが背後にあったことです。当たり前ではないのです。しかし慣れてしまうと、出来て「当たり前」と思い、有り難う(感謝)を忘れている、と。こんなことを孫が来て、気づかされました。(2021年12月6日)