イサクが「お父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」と尋ねた。するとアブラハムは、「息子よ、それは神ご自身が備えてくださる」と答え、2人はさらに続けて一緒に歩いて行った。(創世記22章7,8節)
これは12歳の息子と、112歳の父との会話です。2人は、いけにえを献げる場所を目指して歩いています。火と刃物は父が持ち、薪(たきぎ)は息子が背負っていますが、いけにえにする小羊がいません。そこで息子が尋ねました。すると、「神様が備えてくださる」とだけ答え、また黙って歩き続ける父。どんな思いだったのでしょうか。
先日、息子夫妻と一緒に一泊旅行をし、何気ない会話を交わしました。2か月の孫も一緒でしたが、息子があやしているのを見ました。私の記憶にある幼かったあの息子が、今はお父さんになっているのだと思うと、胸が熱くなりました。と同時に、記憶にもありませんが、子どもだった私を抱っこしている父を思いました。その父は57歳で亡くなり、孫である息子や、その子のひ孫を見ることなく逝ってしまったのですが。
さて、創世記22章には、もう一つの会話が記されています。それは、アブラハムと神との会話です。神は「アブラハムよ」と呼びかけ、彼は、「はい、ここにおります」と答えています。すると、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを全焼のいけにえとして献げなさい」と命じます。何と残酷な言葉でしょうか。ところが、アブラハムは何も言い返さず、言われた通りに従うのです。神との会話を一人胸の内に収め、そのことを誰にも話さず、黙々と従いました。ここで、もう一度、冒頭の聖句をご覧ください。アブラハムはイサクに、「神が備えてくださる」と返答していますが、なぜそのように言えたのでしょうか。
物語の最後は、イサクではなく羊をいけにえに献げています。その羊は、まさに、神が備えてくださったのです。そのため、「主の山に備えあり」と、今の至るまで言い伝えられています。必要な物は必ず、神が備えてくださるのです。父と子の会話、神との会話、そして、父と子と孫の間の繋(つな)がりを覚えました。(2021年10月23日)