わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ローマ7章19節)
自分のしていること、それは、自分が望む善ではなく、望まないばかりか、憎んでいる悪をしてしまう。していることが分かっていないから、そうなるのでしょうか?いいえ、わかっちゃいるけど、止められないのです。昔、そんな歌と言葉が流行しました。したらいけないことは百も承知、それでも、やめられない現実があるのです。その原因は、私が肉の人であり、罪に売り渡されている奴隷だからです。これは深い理解です。大抵の人は、できないのは自分の意志が弱いからだと考えます。では、意志を強くすれば解決するのでしょうか。いいえ、そうではありません。意志よりも強い力が働くからです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(同7章18節)
部屋を片付けて、きれいにしたい。そう願うのに、ごちゃごちゃしたまま。ついつい、今日は疲れたから片付けるのは明日にしよう、と先延ばしにしてしまう。明日は明日でやることがあり、きれいに整理できないまま。最後には面倒くさくなってしまう。別の例では、自分のためには多くのお金を使うのに、家族や他の人のためにはケチケチしてしまう。自己中心だなと思うのに、変えられない。更に、毎日聖書を読み、祈ろうと決めても、忙しさから途中でやめてしまう等、幾つもの事例が挙げられます。酒を飲み過ぎない、ギャンブルや悪習慣から抜け出したいと願うのに、どうしても抜け出せません。律法にある「すべきこと」「してはいけないこと」は知っているのです。知らないのではないのです。「自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです」(テトス3章11節)。つい最近。有名な女優さんが覚せい剤使用の罪で逮捕され、大きなニュースになっています。いけないと分かっていても止められなかったのです。その結果、すべてを失いました。何と惨めなことでしょう。
わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。(7章24~25節)
罪に売り渡され、その虜にされている、そこから救いを求めて叫びます。救いを求めて差し出した手を、しっかり捕え、握りしめてくださる主イエスがおられます。だから、神に感謝しているのです。まだイエス・キリストを知らない方もおられるでしょうが、主イエスはいつでもすぐ傍に居られます。ですから、「主イエスさま!」と呼びかけ、祈りましょう。必ず助けと救いが与えられます。