イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれが一番偉いかと議論し合っていたからである。(マルコ9章33,34節) 

子どもが生まれる前は、五体満足であればそれだけで良い、と言います。ところが、大きくなるにつれ、他の子どもとつい較べてしまう。体が大きいの小さいの、顔がどうだこうだ、と。学校に行くようになると、比較はもっと鮮明になります。まず成績です。更に運動神経などなど。これは子どもだけの話ではありません。大人の世界も同じです。

冒頭の聖句。イエスには12人の弟子がいました。一緒に旅をしたり、移動しました。その途中、弟子たちが議論をしていました。先生であるイエスは、「何を議論していたのか」と尋ねました。すると弟子たちは黙って何も言いません。誰が一番偉いかを議論していたからです。キリスト者の間でも同じことが起きます。特に、教職者の間に生じます。誰が一番用いられているか、人気があるか等々。主イエスは12弟子を集めて、「一番先になりたい人は、すべて後になり、すべての人に仕える者になりなさい」「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と、教えています。

金子みすゞの詩に「私と小鳥と鈴」があります。
私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに 地面(じべた)を速くは走れない
私がからだをゆすっても きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄は知らないよ
鈴と、小鳥と、それから私 みんなちがって、みんないい

題は『私と小鳥と鈴と』ですが、最後は、「鈴と、小鳥と、それから私」と、私の位置が一番先から最後に変わっています。「みんなちがって、みんないい」とのまなざしは、そこに生まれるのです。「お空は飛べない」「地面は走れない」「きれいな音は出ない」「たくさんな唄は知らない」とあります。私たちは生まれた時には、ほとんど何もできず、何も知らなかったのに、少しできることが増え、少し知っていることが増えると、できない人や知らない人を見下しやすくなります。それを戒めていると読めます。

人と較べない。どんな人にも他には無い価値が与えられています。あなたはあなたのままでいい。人と較べると、それが見えなくなるからです。(2021年9月20日)