わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。(Ⅰコリント11章1節)
1歳7カ月の孫が来ると、一緒に隣りの公園まで歩きます。見ると、孫は手を背中に回して後ろ手で歩いています。普通、子どもはそんな格好で歩きません。私の歩く格好を真似ているのだと気付きました。よく見てるなと驚きました。それだけではありません。夕食の時、孫と向かい合わせに座ります。顔が合うと、私に向かって右目だけ「いない、いない、ばぁ」をして笑いかけます。先月、私が両手で顔を隠して、「いない、いない、ばぁ」をしたの覚えていて、その真似をしているのです。
子どもは親の言うことは聞かないが、していることは真似る、と言われます。あるお母さんが台所で、両手に食材を持っていたので、下方にある冷凍庫の扉を、つい足で閉めました。それを子どもは見ていて、同じように冷蔵庫の戸を足でバタンと閉めました。
「ならう」には2つの漢字があります。倣う=真似て、その通りにすること。習う=知識や技術などの教えを受ける学習です。孫が来て、真似る方の「倣う」に気付きました。
冒頭の聖句にも「倣う」が出て来ます。使徒パウロが、コリント教会のキリスト者たちに、「このわたしに倣う者となりなさい」と書いているのですが、それは「キりストに倣うように努めているわたしに」と言っているのです。倣うは真似ることです。真似るには、キリストをいつもよく見ている必要があります。孫が私の言動をよく見ているのには驚きましたが、そのように私はキリストを見ているか、と自問しました。キリストは霊的な御方なので目には見えません。そのキリストを見て倣う(真似る)のは簡単ではありませんが、助け主である聖霊の働きと祈りによってできるように導かれます。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリント3章18節)。キリストのことを学び習うことも大切ですが、キリスト御自身を見つめて倣う者にされたい。それに役立つのが、信仰の初期に愛読した『キリストに倣いて』(トマス・ア・ケンピス著)です。孫が来て、そんなことを思わされました。(2021年9月14日)