幼子でさえ、何かをするとき、その行いが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。(箴言20章11節・新改訳)
先日、1歳6か月の孫が娘と来て、数日滞在しました。毎月、来てくれるのですが、その都度、以前は出来なかったことが出来るようになっていて、成長の跡が分かります。
今回、して良い事と、してはいけない事の区別が、出来るようになっているのに気付きました。物事の善悪の識別です。孫は食器棚やカラーボックスに置いてある物を全部持ち出したり、揺すってその音色を確かめたりします。(後で片付けるのが大変)。なかでも私が飲んでいる薬瓶が気に入って、何度も揺すります。そうすると錠剤が粉々になってしまうのです。しかし、反応が面白いらしく、ダメと言われても、そっと持ち出そうとします。ちょうど食事の後の時間で、私の膝に乗っていて、その薬瓶を手に取りました。どうするか黙って見ていると、下から私を見上げるのです。してはいけないと分っているけど、揺すってみたいので、こっそり私を見上げるのです。その時、冒頭の聖句が思い浮かびました。新共同訳では、子供も、行いが清く正しいかどうか、行動によって示す。
してはいけない事だと分っていても、してしまう。分かっていても、止められないのです。反対に、すべきことなのにしたくないのです。それが罪の根っこにあります。そのことに気付きました。幼いから、まだ分からないだろうと考えるよりも、幼くても分かっているから丁寧に説明することが大切だと思いました。そこで、「この瓶を揺すり続けると、中の薬が粉々になるから止めようね」と話しました。すると、納得したらしく、瓶を元の所に戻しました。いちいち説明するのは面倒なので、ついダメダメと頭ごなしに禁止しがちです。そうすると逆に反発して、もっとしようとなります。これは何も幼子だけでなく、大人にも言えることです。
翌日、車で帰るのを見送った後、昔から言われている言葉、「孫は来て嬉(うれ)し、帰って嬉し」を思い出し,本当だな、と実感しています。(2021年8月14日)