イエスは、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ4章15節)

「他人の靴を履いてみる」のは、性格や考え方などが違う人を理解するためです。相手と同じところ、同じ視点に立つためです。

『他者の靴を履く』の著者ブレイディみかこさんはイギリスに住む保育士。彼女の息子が通う中学校は、人種差別や貧富差の問題などがあり、まさに世界の縮図のようなところでした。ある日のこと、学校でこんなテスト問題が出ました。

「エンパシーempathyとは何か?」

「シンパシーsympathy」は他人に同情や共感する感情のことですが、「エンパシー」はそれとは少し違う言葉です。彼は考えた末、エンパシーについてこう回答しました。「自分で誰かの靴を履いてみること」と。立場や意見が異なる相手への不寛容さが増している、そんな「面倒」な社会で暮らすには、「他人の靴を履いてみる」必要があるからです。お母さんの影響もあるでしょうが、中学生で、そのことに気づいたのは素晴らしい。

冒頭の聖句には、主イエスが同情(シンパシー)に満ちた御方であることが示されています。だから、誰にも分かってもらえない事であっても、主イエスは理解してくださいます。イエスは神であるのに、私たちと同じ人となられました。あらゆる点に於いて試練や誘惑に遭われたから、それに負ける私たちの弱さに同情できるのです。しかし、単なる同情でも、その気持ち分かる分かると口にするのでもありません。私たちと一つになってくださるのです。イエスは前述の「エンパシー(自分と違う考え方の人や違う立場の人が、どうしてそう思い考えるのかを想像する力)」もお持ちです。だから、主イエスは、真の慰めと励ましを与えます。そして、私の靴に御自分の足を合わせて履いてくださるのです。このような御方が救い主、助け主として日々、共に生きてくださるのです。

以上のような視点で、主イエス・キリストを思い巡らしてみました。誰もが生き辛さを感じている今、相手への共感と思いやりの源である主イエスに倣い、少しでも他人の靴を履く者になりたいと願っています。(2021年7月15日)。