神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。(コヘレト7章13節)
曲がったものは良くないから、真っ直ぐに直そう(治そう)と努力しがちです。事実、曲がったきゅうりは売り物にならず、真っ直ぐなきゅうりが買い求められるからです。しかし、きゅうりをまっすぐに直そうとしたら、ポキンと折れてしまいます。だから、そんなことはしません。味に違いはないのですが、可と不可に選別されます。では、性格の歪みであったり、心身の障害といった「曲がったもの」に対してはどうでしょうか。
吃音(どもる)で悩んだ人が、そこを乗り越えて大学病院の「吃音ドクター」になりました。彼は小学生の時、朝の健康観察で「はい、元気です」と言う挨拶の時間が苦痛でした。初めの「は」が出て来ないので、焦って、どもってしまうからです。そうした吃音を抱えたまま大学生になりました。彼は大学3年の時、自助グループに入りました。そこで初めて、吃音の悩みを話し、分かち合えました。何回目かの時、「吃音は治すべき」と思うことこそが悩みの出発点だと気づきます。吃音を悪いものと思っていると、吃音が出たときに劣等感や自己嫌悪感に陥る。さらに話すことへの不安が増し、人と会うのが怖くなるという悪循環に陥ってしまうからです。彼は今、吃音の専門医として、彼にしかできない対応をしています(5月22日の朝日新聞より)。
以前このブログ(62)で、「繊細さん」について書きました。治す(直す)のではなく、ありのまま共存して生きること、と述べました。世の中には色々な曲がったものと思われるものがあります。それを一人で抱えて、誰にも言えずに悩んでいます。そして、何とかしようと努力しますが、幾度も挫折しています。それに対する解決の手がかりとして、冒頭の聖句があります。神が曲げたものを、誰が直しえようか。コヘレトは、あるがままに受け入れるよう勧めています。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12章10節)。弱さを覚えるときこそ、キリストに頼るからです。(2021年6月3日)