たとえ、遅くなっても、待っておれ。
 それは必ず来る、遅れることはない。( ハバクク2章3節)

待つということは、何事にも必要で大切なことです。しかし、たいていの人は待つのが苦手です。私もその1人で、待ちたくないのです。例えば、スーパーで買い物をしてレジに行くとき、なるべく人の少ない列を選びます。待たなくて済むからです。また、エレベーターに乗ると、すぐに閉めるボタンを押す人が殆どです。そのため、開ボタンよりも閉ボタンの方が早く壊れるそうです。いかに、忙(せわ)しなく生きているかが分かります。

冒頭の聖句は、旧約の預言者ハバククの言葉です。彼は社会の現状に不条理さを覚え、その事を神に訴えした。主よ、どうしてですか、いつまでですか、と。それに対して神は、これから示す幻を大きな字ではっきりと書き記しなさいと命じました。そして、冒頭の聖句を約束されました。「高慢な者は倒れるが、信仰に生きる人は救われる」が書き記すべき字です。神が約束されたことは、遅いようでも信じて待っていれば、必ずその通りになるからです。決して遅れることはない、のです。

ある人の事例です。友人に貸したお金の返済期日が迫っているのに、何の連絡もありません。返さないつもりだろうか、と疑心暗鬼になっていました。その時、この聖句を読み、信じて待つことにしました。するとその翌日、彼から、「遅くなって済まないが、今、振り込みました」と連絡があったのです。催促しないで良かった、と思いました。勿論、催促する場合もあるでしょうが、相手を「信じて待つ」と、イライラしないでいられます。

疑いながら待つのではなく、信じて待つことです。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(ヤコブ5章7節)。種を蒔いたら、育って実を結ぶまで待つ必要があります。目には見えないですが、根は伸びて栄養を吸収しているのですから。

忍耐という漢字は、忍んで耐える=我慢する響きがします。同じ「にんたい」を忍待の字にすると、必ず来る春を「忍んで待つ」となり、希望が見えます。更に、任待の字にすると、すべてを任せて待つになり、期待しながら待つ響きがします。ここに至りたいものです。  (2021年5月21日)