私はイスラエルにとって露のようになる。(ホセア146節・聖書協会共同訳)
露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花開き…(同上・新共同訳)

私=神。神はイスラエルである人間に対して露のようだとあります。露は昼と夜の寒暖差が大きいとき、植物の葉などに出来る水滴です。水気の無い砂漠にも植物が育っているのは、驚くべきことですが、それは露のお蔭です。露は、日が落ちて気温の下がる夜間に生じます。私たちが眠っている夜の間に、結露しているからです。人が知らないうちに露は生じます。それによって昼間の暑さで失われた生気を、植物は取り戻しているのです。露は神の恵みです。魂を生き返らせてくださいます(詩23編3節)。朝日にきらきらと輝く露のように、私たちも輝きます。

主イエスは、施しという善行をする時は、人目につかないように行いなさい、と教えました。神はそのように私たちに恵みをくださるのです。神は、私がしてあげたと、これ見よがしには行われません。人知れず与えられます。丁度、露が人知れず与えられるのと同じです。気が付くと、露にすっぽり包まれているのです。

ところで、同じホセア書には私たち人間のことを記した「露のように」、が2箇所あります。
お前たちの愛は朝の霧、すぐに消え去る露のようだ。(ホセア64節)~私たちの愛も同じです~
彼らは朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。(133節)~人間存在そのものが儚いのです~

施しや善行をしたら、どこかで「私がした」と示したいものです。そんな私たちは神の目には、露のように、すぐに消えうせてしまう「はかない」存在でもあるのです。そのことから何を教えられるでしょうか?(2021年4月22日)