人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受ける事が定まっている…  (ヘブライ9章27節) 

パスカル(1623年1662年)は『パンセ』の中で、「パスカルの賭け」と呼ばれる断章を書きました。神は目に見えない、死後の世界(来世)も同じ。だから、神の存在は限りなく不可知。そこで、神は「いる」に賭けるか、反対の「いない」に賭けるか。もし実際、死んだらそれで終わりで、後には何も無かったとする。神はいると信じ、真面目に生きて来たとして、それで失い損をすることは何もない。でも、実際、死後の世界があり、裁きが定まっているという冒頭の聖句が本当だったら、どうするか。死んだら終わりで、死後の世界も神も無いとの考えに賭けていたら、慌てふためき、大損をする。裁かれて地獄行になるからです。一方、神は「いる」と信じ、そこに賭けた者は何も失わないばかりか、神の国に行ける幸いを手にできる、とパスカルは言います。だから、神は存在するし、来世もあると信じる方が得策だ、と。一見、打算的な損得計算に見えますが・・・。

パスカルは数学者で物理学者、そして、何より敬虔なキリスト者でした。彼が生きた時代は皆が神の存在を信じていました。そんな時代を考えると、彼の言葉は的を得たもので、後の数学や物理に於ける確率論を導きました。目に見えないもの=存在しない、と考えよりも、神や愛や命は目には見えないとしても、最も大切なものとしてあると信じて生きる方が、人間らしく生きられるのではないでしょうか。前回のブログ(65)「いのちの歌」と併せて読んでみてください。

東日本大震災から10年。津波によって子どもが行方不明になった父親が60歳近くで潜水士の資格を取り、海中に潜る姿がテレビで放映されました。父親は、少しでも水にのまれた娘の近くにゆきたいと思い、また、その最期の気持ちに寄り添いたいとの思いがそうさせたのに違いない。死んだら終わり、魂も死後の世界もない、神も存在しないとエセ(疑似)科学は言うとしても、私たちは親しかった死者を思い、悔い改めや感謝を自分の生き方で示したいと願うのです。

日本人は戦後、祖先たちが大切に守って来た霊性を失い、信仰からどんどん遠ざかっていると言われます。その結果、ますます住みにくい世界に傾いています。どうしたら良いのでしょうか。イエス・キリストが、すべての人の救い主として再来・再臨されることを切望しています。(2021年4月12日)