だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15章32節) 

道徳は、人間として必要なものですが、別段特別なことではなく、当たり前のことを教えています。たとえば、うそを言ってはいけない、人のものを盗むのはいけない等です。冒頭の聖句のように、出て行ったまま音信不通だった弟が帰って来たら、祝宴を開いて喜ぶのは当たり前のはず。父親が兄息子に向かって言った言葉が「当たり前」です。

⦿脱いだ洋服は片付ける。⦿ごほうびがなくても頑張る。⦿プレゼントは喜んで受け取る。⦿横切るときは、人の後ろを通る。⦿人の話は真剣に聞く。⦿勝っても威張らない、負けても怒らない。⦿「ありがとう」を口ぐせにする。間違ったら「ごめんなさい」と謝る。⦿「だって」と言ったり、人のせいにしない…。当たり前のことなのに、これらを読んで、なるほどと思いました。でも、実行できていない、とも思いました。

学校の授業科目に「道徳」を復活させたのはA元首相でした。ところが、本人は国会で、うその答弁を繰り返しました。自分の身を守るためでしたが、人の道に反することです。では、道徳は要らないのでしょうか。いいえ、かえって必要です。しかし、その前に知っておくべきことがあります。人間の罪についてです。してはいけない、と教えるだけでは守れないのは、罪があるからです。人として当たり前のことが行えないのが罪人です。罪人=ざいにんではなく、つみびと、と読みます。私たちは皆、罪人なのです。人の事をとやかく言う前に、私自身が罪人なのです。主イエスの救いが必要な罪人です。

ここで良心を考えます。昔の人は良心を、心の中にある先の尖った三角形の風車に例えました。悪い事をすると心の中でそれが回り、心を痛めるからです。道徳心とも言い換えられます。パウロは、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」(使徒23章1節)と弁明しました。では、良心に従って生きるには、どうしたら良いのでしょうか。心の中にイエス・キリストを自分の良心として住んでいただくことです。それが罪に支配されないために必須です。その時、人として当たり前のことが分かるようになります。
最後に一言。新1万円札の顔になる渋沢栄一は、日本経済の父と呼ばれた人です。彼は、「経済と道徳」は車の両輪だと言いました。自分の儲けだけを考える経済ではなく、他の人のための経済を目ざした人として尊敬されています。(2021年2月14日)