東京の渋谷駅前に、飼い主に対する並外れた忠誠心で知られる秋田犬ハチの像があります。大学教授だった飼い主は渋谷駅から通勤していました。ハチは毎朝、飼い主と一緒に駅まで歩き、夕方、電車が着く頃に出迎えました。しかし、ある日、飼い主は駅に現れません。職場で亡くなったのです。しかし、ハチは自分が死ぬまでの9年余り、毎日、同じ時刻に駅に現れました。雨の日も風の日も、飼い主が帰って来るのを忠実に待ち続けました。胸を打たれます。ハチは飼い主を慕っていたのです。今から100年前のことです。

画家フランシスの兄は「ニッパー」と呼ぶ非常に賢いフォックス・テリアを可愛がっていましたが、兄が世を去ったため、彼の息子とともにニッパーを引き取り、フランシスが育てました。たまたま家にあった蓄音器で、かつて吹き込まれていた兄の声を聞かせたところ、ニッパーはその前で最初は、けげんそうにしていましたが、やがて耳を傾けて懐かしい主人の声に聞き入っているようでした。そのニッパーの姿に心を打たれたフランシスは早速筆をとって一枚の絵に描き上げました。その絵には「彼の主人の声 His Master’s Voice」と書かれています。今から100年前のイギリスでのお話です。ビクター社のロゴ・マークとして親しまれています。

この2つの実話に共通するのは、可愛がってくれた主人を慕っていたことです。では、私たちの主人は誰でしょうか。主人なんかいない、と思っているかも知れませんし、私の主人は私だ、と思っているかもしれません。聖書には、どうあるでしょうか。

主は私の羊飼い、私は乏しいことが何もない(詩23編1節)と、聖書にあります。私たちは羊です。弱く、迷い易い羊です。どうしても、羊飼いが必要なのです。神は、善き羊飼です。羊のために命を捨てた真の羊飼いが、イエス・キリストです。十字架に命を捨てるほどに、私たちを愛して下さったお方です。そのお方を、私はどれほど愛し、慕っているだろうか。ご主人に会いたくて、雨の日も風の日も迎えに行った忠犬ハチのように、主イエス様を慕い、主の再臨を待ち望んでいるだろうか、と自問します。更に、ニッパーのように、羊飼いである主イエスの語りかける声に、じっと耳を傾けているだろうかと、ニッパーが蓄音機の前でご主人の声に聞き入っている絵を見ながら、自問しています。

羊はその声を知っている(ヨハネ10章4節)と、あります。魂に響く主イエスの声は、落胆したときは慰め、迷ったときは進むべき道へと導き、不安なときは平安を与えてくれます。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く(3~4節)。番号ではなく名前で、あなたや私を呼んでくださるのは、父であり母である親だからです。日々の必要を備え、導いてくださる飼い主だからです。何と、有り難いことでしょうか。