人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。
                (詩編103編15、16節)

健康のためにビワの葉を集めているのですが、昨年、一戸建て住宅に生えている大きなビワの木を見つけました。ベルを鳴らし、声をかけると、憂鬱そうな表情の年老いた男性が出て来ました。何枚かだけなら取っても良いと言われました。この男性は家族もいない独り暮らしをしていて、その気難しい表情から、健康にも問題がありそうでした。
庭も雑草が生えるままになっていました。その後、その家の前を通るたび、大丈夫かなと気になっていました。

しばらく時が経って、空き家になっているのに気づきました。緊急入院したのか、亡くなったか、定かではありません。家は封印されたまま、何か月かが過ぎました。そして、ある日、その前を通ると、その家は取り壊され、あのビワの木も根こそぎ無くなっていました。それを見たとき、しばらく考え込んでしまいました。すると、冒頭の聖句が思い浮かびました。そこに家があり、そこで生きた人生と暮らしがあったはずですが、風が吹けば、消えうせ あったことさえ知る者もなくなるのです。今、その跡地には、3階建てのマンションが建設中です。その男性のことを誰が覚えているでしょうか。

冒頭の聖句は、人間のはかなさを歌っていますが、そんな塵にも等しい者をも、主なる神は御心に留めておられるのです。そして、イエス・キリストによって「罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出し、慈しみと憐れみの冠を授け、生きている限り良きものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」(3~5節)との約束です。罪と病、老いと孤独な死、存在さえ忘れられる哀しさ。決して他人事ではないと思いました。

落葉の季節。隣接する公園の木々から毎日、年老いた葉が風に舞いながら落ちてきます。役目を終えたのです。前述の男性のことを思いながら、今、自分に与えられている恵みを思い、詩103編1節を口ずさみました。わたしの魂よ、主を讃えよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。(2020年11月19日)