誰が烏(からす)のために餌を置いてやるのか
その雛が神に向かって鳴き 食べ物を求めて迷い出るとき。(ヨブ記38章41節)
朝起きると窓際に行きます。隣接する公園に、いつの頃からか1人の年配男性がベンチに座っているのが目に入ります。その人は、ハトにパンを投げ与えています。数羽の鳩が彼の周りに寄って来ます。毎日、そこでパンをやっています。その光景が朝一番、目に入ります。時々、烏(カラス)も後ろからそのおじさんに近づいて、エサをもらっています。2階の窓から見ている私は、ほっこりさせられます。
公園には色々な人がやって来ます。昼間、保育園児も来ます。年長組も年少組もいます。とても賑やかです。ゴムまりのように飛び跳ね、走り回っています。しばらくすると居なくなります。それぞれの園に帰るからです。また、週1回、近くの作業所に通っている人たちが、指導員と共に清掃をしています。公園がきれいなのは、この人たちのお蔭です。
公園には猫がいます。夕方になると毎日、決まった時間にエサを与える人が来ます。毎日ですから、エサ代だって馬鹿になりません。それを何年も続けているのです。だから、野良猫たちはコロコロと太っています。私も動物が好きですから、その人と言葉を交わします。ご夫婦でしていて、奥さんは夕方、御主人は夜にエサを運んでいるのです。
カラスも野良猫も、人間社会には邪魔で厄介な存在かもしれません。私たちの出す生ゴミを食い散らかすからです。でも神は、私たちが嫌うそうした動物をも養っておられます。冒頭の聖句はそれを示しています。広く大きな神の愛のゆえに、すべての動物、そして障碍者や幼児などが調和して生かされているのです。そして、この私も同じであると思います。だから今、こうして生かされていること自体が有り難いことであり、恵みなのです。(2020年10月6日)