荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。…」(出エジプト16章2,3節)

荒れ野とは、水も食べ物も何も無い所です。イスラエルの人々はエジプトで奴隷でしたが、神はモーセを用いて救い出しました。奴隷には自由がありませんから、神に感謝しました。ところがです、荒れ野を何日も通ると、水がないパンがないと不平を言い出したのです。上記の聖句のように言って、モーセに不平を言い立てました。どう思われますか?辛く苦しい状況になると、どんな人も同じように言い易いものです。そういう思考回路が出来上がっているからです。イスラエルの人々とありますが、私たちのことなんです。

失敗をしますと、ああしておけばよかったと後悔します。そして、~だったら良かったと言いがちです。しかし、そんなことを言っても、元に戻ることは出来ません。そんなことは分かっているのですが、そうした思考回路が出来上がっていますと、不毛な不平や愚痴を口にします。困った思考回路ですが、他人事ではありません。自分の中に同じものを見出すからです。健全ではありません。上記太字の聖句には、本当でないことが言われています。エジプトの国では奴隷でしたから、肉を沢山食べ、腹いっぱいものパンが与えられなかったはずです。このことから、体は自由になっても、思考回路である心は奴隷状態のままだという事です。それが証拠に、状況が悪くなると、いつも同じことを口にしています。

床に、高価な飲み物をこぼしたとします。あーあ、勿体ないことをしたと悔やみます。しかし、元に戻すこと出来ません。それなのに、こぼさなければ~だった、と事ある度に口にするとしたら、イスラエルの人々と同じです。済んでしまったことを悔やんだり、ああだったら良かったのに、と繰り返さないことです。変えられないものは平静な心で受け止め、前を向くことです。その意味で聖書は、外国の遠い昔の話ではありません。私たちの事を描いているのです。幾つかの出来事を通して、そのことに気づかされました。(2020年9月29日)