わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。(ホセア11章4節)

6ヶ月になる孫と娘が、泊りに来ています。1ヶ月前と比べると、成長しているのが分かります。少し前から離乳食を始めているのですが、その食事作りなどを目にしました。何種類かの食材を茹でて、裏ごしにします。そして、1匙ずつ食べさせます。いろいろな種類の食材を食べさせて、反応を確かめます。

時間をさかのぼると、今は母である娘にも、6ヶ月の時がありました。妻が離乳食を作って、1匙ずつ食べさせていました。更に時間をさかのぼると、私にも6ヶ月の時があり、今は亡き母が1匙ずつ食べさせてくれたはずです。はずですと言うのは、私にはその記憶が全くないからです。だから、母の苦労が分かりません。いろいろ工夫したり、人に尋ねたりして、最善を期したと思われます。そうした苦労が、今は分かります。しかし、母はもうこの世にいません。孫を与えられて、やっと気づいたのです。諺に「親の心、子知らず」があります。その言葉通りでした。

ここで、冒頭の聖句を見てください。お母さんが幼い子に食事を与えている情景が見えます。わたし=神、彼ら=イスラエルの民、です。一番最後の「身をかがめて食べさせた」に注目。母親が、子どもの高さにまで屈み込んでいます。上から目線ではなく、相手の高さにまで身を低くしています。聖書の神は、そのようなお方です。

離乳食を食べさせてもらった記憶がない、ましてや、その苦労にも気づかない。親の心、子知らずです。独りで大きくなったような顔をして、親に反抗してきた自分が思い出されます。それと比例するように、真の親である神の心を知らなかった私でした。そんな私にもかかわらず、神はイエス・キリストとして私たちと同じ高さにまで身を低くし、屈まれたのです。そして、日々、必要な食べ物を1匙ずつ、食べさせてくださっているのです。孫が離乳食を1匙ずつ食べさせてもらうのを見て、感慨を深くしています。(2020年9月11日)
matome25