主イエス御自身が「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してくました。(使徒20章35節)

小さな兄弟がおもちゃで遊んでいます。弟は兄の持っているおもちゃが欲しくてたまりません。そこで、「それ、貸して」と頼むのですが、兄は「ダメ」と断ります。お兄ちゃんが貸してくれない!と、泣き出します。それを見ていたお母さんは弟に、「自分のおもちゃを1つお兄ちゃんにあげなさい。そうすれば貸してくれます」と、耳元で言いました。自分のものを手放すのが先だと教えたのです。これは子どもの話だけではありません。私たちは生まれつき、もらう方が幸いと思っているからです。

主イエスが活動されたイスラエルには、死海とガリラヤ湖の2つがあります。ガリラヤ湖にはヨルダン川から水が入って来ますが、その多くを下流へと放出しています。ところが、死海はヨルダン川の水が流れ込むばかりで、外には放出しません。受けるばかりです。与えることをしていません。そのため水中の塩分が濃縮され、生き物が住めません。それで死海と呼ばれます。何か生き方が象徴されていますね。自分の事を言われているように思います。

そこで、「慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを、主よ、私が求めますように」と祈ります。ここで、冒頭の聖句をご覧ください。受けるよりは与える方が幸い、これは主イエスが言われた言葉です。それが主イエスの生きざまでした。神であるのに、その栄光と地位を捨てて、貧しい1人の人として、この世に生れました。そして、罪人である私たちに仕え、私たちの罪の身代わりとして十字架の死を受け取られました。与えて、与えて与え尽くされたご生涯でした。私たちもその何万分の一でも、倣いたいものです。なぜなら、一生を終えて後に残るのは、私たちが集めたものではなく、人に与えたものだからです。(2020年8月25日)