富士登山の思いで

以前住んでいた茅ケ崎では、晴れた日には美しい姿の富士山が見えた。見ながら、いつか頂上まで登ってみたいと思っていた。11年前、思い切って富士登山ツアーに申し込んだ。学生だった息子も一緒に行った。今年のような雨の多い、7月下旬だった。

登頂当日も小雨で、カッパを着て参加した。バスで五合目まで行き下車。グループの一員として歩き始めた。登るにつれて、山小屋で売られている飲料水の値段が高くなるのに気づいた。何合目か忘れたが、雨が止み下界が見渡せる地点に辿り着いた。それまでは、ただ黙々と前の人に続いて歩くのに必死だった。山肌の岩や石、そして、狭い景色しか見えなかったから、感激だった。

8合目の山小屋で一泊。とにかく人が多い。簡単な食事を終えると、すし詰めの小屋で眠るばかり。雨が激しく降るのが聞こえた。うつらうつらしていると電気がついて皆が起き出した。まだ夜中の1時過ぎ。山頂でのご来光を見るためだ。外に出ると晴れていて星空だった。そこから山頂を目ざして歩き始めた。人が多く少しづつしか進めない。こうして、やっとの思いで山頂に辿り着いた。息子と記念写真を撮った。

茅ヶ崎から見ていた美しい富士山。その山頂に立っているのだが、達成した喜びよりも疲れの方が大きかった。後は下山するばかり。息子と一緒に、ほぼほぼ麓まで辿りついたころ、疲労はピーク達していた。見ると、馬が用意されていた。代金を払って馬で下山する人を募っていた。余程、乗ろうか、迷ったが、止めた。帰りの団体バスの中は、往きとは違って沈黙が多かった。皆、疲れて眠っていたから。以上が、一泊二日の富士登山の概略。

もう一つ思い出すのが、登山中に体調を悪くした人(心筋梗塞らしかった)が、担架に乗せられて私たちの横を駆け抜けて行った時のこと。登っている列は皆、立ち止まって隙間を作った。脱落して下山するのも命懸けと知った。安易な気持ちでの登山は危険そのもの。私も低い山への登山経験を経て、日本一高い山に臨めば、もっと楽しめたのにと思った。

あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。
平穏な地だけでだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか。(エレミヤ12章5節)

この聖句は、弱音を吐く預言者エレミヤを叱咤する神の言葉。私たちが目指す人生のゴールは、日々の積み重ねを経て与えられるもの。そんなことを富士登山から示されました。(2020年7月27日)