わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ1章21節)
7月1日(水)に朝祷会での奉仕依頼を受けました。毎週行なわれている会です。担当する牧師の名前のリストが列記された奉仕表を受け取りました。その日の天気予報は雨風共に強く、交通機関にも支障が出るかもしれない、とのことでした。その時、私は次のように思いました。どうして私の行く日が最悪の天気なのだろうか、と。これでは集まる方も少ないだろうとも。
海難事故で中学生グループの1人が亡くなりました。教会の中学生会で海へ遊びに行った時のことでした。その子の葬儀が教会で行われました。亡くなったのは、その教会の牧師の息子でした。最後の挨拶で、父親である牧師は、「事故で亡くなったのが私の息子で良かった。こんな辛い悲しみを味わっては欲しくないから」と言われました。この話を私は間接的に聞きましたが、感銘を受けました。
さて前述の朝祷会のことですが、「悪天候なのが私の時で良かった。他の人が同じマイナスの思いをしなくて済む」と受け取り直しました。すると、気持ちがさっと晴れ渡り、前向きになれました。どうして私の時なのですか、と主に訴える必要が無くなりました。また、貧乏くじを引いたとか、雨男だからこうなるのか、などと考えませんでした。私で良かった、と受け取れたのは、前述の海難事故で息子を奪われた方の「他の子ではなく、私の息子で良かった」を、思い出したからです。
災いや事故に遭うかも知れないと思われた時、普通は「私が遭いませんように」と願うものです。ですが、キリスト信仰によって、「遭遇したのが私で良かった」と言えたのです。これは忘れ難い経験でした。そして、冒頭の聖句が思い浮かびました。どのような出来事に出遭おうとも、どんなことにも感謝できる秘訣がここにあると知りました。 (2020年7月13日)