「花に包まれて」9月30日(月)、姫路での葬儀(家族葬)で思ったこと。
104歳の長寿を全うされたW姉、葬儀の最後は告別献花で、お棺の中に花を入れてお別れをします。美しい花が次々とお棺に入れられ、故人はお花に囲まれ、包まれました。それでも遺族に花が手渡されたので、更に花が入れられ、覆われるほどになりました。その光景を見ながら、神さまが花を造られたのは、見て楽しむだけでなく、故人を見送るためにもあるのだと思いました。
空に星があるように、地上には花があるのです。私もいつか、自分が見送られる立場になることを思いました。よく臨死体験をした方々が、あの世を垣間見て「そこは、お花畑だった」と言われるのを耳にします。花に囲まれ、包まれて見送られた記憶が、死者にもあるのでしょう。
W姉は104歳で、幼いひ孫が4人いて、元気に動き回っていました。お棺にお花を入れるのを楽しそうにしていました。一方、大人たちで涙ぐむ人もいました。何歳であっても、別れは悲しいものです。最期まで介護された息子さんは、よくされたと思いました。それでも、もう少し・・・と、悔いもあることを口にされました。
火葬の間に、会食を一緒にしました。私の席の前には母親を挟んで、ひ孫が2人座りました。5歳位の女の子と、小学3年生の兄でした。私は、「おばあちゃん、どうなったか知ってる」と尋ねました。すると、「死んだの」と女の子。それを聞いた兄が、すぐに「死んだって言わないんだよ、亡くなったって言うんだよ」と、訂正したのです。「死」と言う言葉は直接的過ぎるから、もっと婉曲的な言い方をすべきだと思ったのでしょう。兄と妹の年齢差を実感しました。
私たちは、死んで終わりではありません。命の与え主である神に、召される(呼ばれる)のです。新しい命である永遠の命に召される(召命)のです。その時、信仰が問われるのです。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。…このことを信じるか。」(ヨハネ11章25、26節)
姫路からの帰路、死の備えが出来ているか、と自問しました。死の日がいつなのかは隠されていますから、誰も予測できません。確かなことは、人は生きて来たように死んで逝く、のです。今をどう生きているかが、最期を決めるのです。周りの人にいつも「ありがとう」の感謝を忘れないなら、美しい花々に包まれながら、「あなたこそ、ありがとう」と言われて見送られることでしょう。