わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6章11節)
私たちは食事の前に、「いただきます」と言います。目の前の食べ物と、食材として料理された肉や野菜の命に、そして、料理を作ってくれた人に感謝して、そう言います。私たちは他の生き物の命をもらって、生きているからです。『私たちに食べられる動物の命と心』という本があります。主に、牛・豚・鶏・魚が取り上げられています。殺され食べられる動物の命と心を思いたい。動物だけではありません。米や野菜も生きています。そうした命をもらって、私たちはいのちを繋いでいるのです。つい、そのことを忘れがちになります。スーパー等で売られているにお肉は、既に切り分けられていますから、命をいただいている感じがしないかも知れません。でも、他の生き物の命をもらって、初めて私たちは生きられるのです。だから、いただきます、と言うのです。美味しい、不味いと言う前に、感謝を込めて食べたいものです。
主イエスがこう祈りなさい、と教えられた「主の祈り」の中の1つの願いが、冒頭の聖句です。私たちは毎朝、一日の始めに、この祈りを口にします。飽食の時代の現代でも、神にこう祈ります。何も神に食べ物を祈り求めなくても、お金さえあれば食べ物は得られると思うかも知れません。しかし、すべては天の父なる神からいただくものです。「必要な」とありますが、「日毎の」「なくてならぬ」糧、食べ物のことです。それはすべて神から与えられるものです。
主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と旧約聖書の言葉を用いて、誘惑に打ち勝ちました。神の口から出る言葉こそ、私たちに毎日、必要な食べ物だからです。またイエスさまは御自分のことを、「私は命のパン」と言われました。パンは毎日食べる物です。生きるために必要な糧です。そこで気が付きました。肉体の命のためには肉や野菜といった食べ物が備えられ、霊的な魂のためには御言葉であるイエス・キリストが備えられているのだ、とです。毎日、この2つの命をいただいて、初めて人として生きることが出来るのです。
私は食事の時、不平不満は言わないと決めました。魚や肉(牛や豚や鶏)に「命をありがとう」と感謝して、出来るだけ残さずに食べます。毎食とはいきませんが、食事が美味しいのはそのためかも知れません。あなたはいかがですか。 (2020年6月8日)