わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(2コリント4章16節)
15年前に、「使ってください」とプレゼントされたのが「10年日記」でした。使っておられる方も多いと思いますが、1頁に10年分の記録(4行×35字位)が日記として書き込めて、一覧できるようになっています。ですから、今日は5月11日ですが、去年の今日、5年前の今日の事が読めるわけです。10年使ってみて、これは良いと思い、今の物は自分で買い求めました。2冊目で、ちょうど真ん中の5年目です。
最近、日記に何を書いたら良いのかなと思案するようになっていることに、気づきました。これが老いなのかも知れません。私たちの毎日は、だいたい同じことの繰り返しです。もし特別なことがあれば、それを日記に書けます。ところが、昨日と今日がほぼ同じ繰り返しなら、極端な話、日記は「昨日と同じ」で終わります。特別に目新しいことがないからです。しかし、そんなことを日記に書いて何が楽しく、益になるでしょうか。じゃあ何を書き残せばよいのだろう、と考えました。
冒頭の聖句は、肉体や精神を「外なる人」と表現しています。目に見える部分です。白髪が増えた、背中が猫背になった・・・。年老いて出て来る現象です。それと較べて幼子が歩き始める時のことを、「よちよち」歩くと言いますね。可愛らしい仕草が目に浮かびます。では、「内なる人」とは何でしょうか。目に見えない部分です。そこが「日々新たに」なっているのです。その部分に目を留めると、年老いても決して落胆しないでいられるのです。
いのちは見えません。手で触って確かめることもできません。しかし、生きているのはいのちがあるからです。キリスト信仰は、「いのち」を一番大切な問題としています。信じる人の中に生きて働く「イエス・キリストの命」に気づくことです。そのいのちゆえ毎日が日々新しいのです。外面的な変化は何もないようでも、毎日、新鮮な思いで時が過ぎてゆきます。「内なる人」であるキリストの命が与えられているからです。10年日記を前にして、そんなことを思わされました。(2020年5月11日)